手話も言葉も想いを伝える手段にすぎない

聞こえる家族に生まれたろう者の著者、ろう家族に生まれたろう者の妻、そしてその二人の間に生まれた聞こえる子ども、樹(いつき)さん。本書はその家族の「言葉」に関する異なり方や考え方を描いています。

 

人が生まれ、コミュニケーション手段として言葉を習得していく際、置かれた環境に応じた言葉を獲得していきます。

 

日本語を話すという特に理由もなく選んできたように思えるその選択は、本当は生まれた環境に適応した結果だということです。

 

英語を話す両親の元に生まれた子どもが、いきなり日本語を話すことがないように、子どもにとっての親は大きな環境です。著者は、聞こえる両親の元で育ち、苦労を重ねながらも日本語を話し、学生時代を過ごしたのち、高校でろう学校へと進みます。そして、そこで手話を覚えます。

 

著者の妻まゆみさんもろう者です。彼女は両親や兄弟みなが聞こえないろう家族で育ち、高校生まではろう学校、そして聴者(聴覚に障害のない人)も通う大学に進みます。子守歌が手話であったと書かれているように、日本手話が初めて覚えた言葉でした。

 

日本で使われている手話には、「日本手話」と「日本語対応手話」の2種類あります。手を動かして言葉を話していたら、全部同じ種類の手話かと思いきや違うのです。

 

1つ目の日本手話は日本語とは異なる独自の体系をもつ言語で、手や指、腕など手指動作だけでなく、非手指動作と呼ばれる顔の部位(視線、眉、頬、口、舌、首の傾きや振り、顎の引き出しなど)も重要な文法要素になっています。

 

そして2つ目の日本語対応手話。日本語の文法や語順に手話単語を当てはめたもので、難聴や中途失聴者など日本語文法が身についている人には覚えやすくできていると言われています。

 

本の中でまゆみさんは「日本手話は、表現がちょっと間違っていても、勢いで伝えられる面があるね。眉や視線、口や舌、首の動き、頬、顎の使い方にも意味がちゃんと含まれているのが日本手話という言語だから、それも意味として読み取ることで、言いたいことは伝わる」と話しています。

 

そこで、ちょうど本書を読む前に遭遇した「手話が聞こえた」体験がよみがえりました。

 

それは義理の妹の結婚に際した両家顔合わせの席のことでした。

「あちらのご両親は耳が聞こえないらしいのよ」当日の朝、いきなり耳に飛び込んできた前情報によって「どうやって会話をするのだろう?」と、少々の不安と緊張を抱えて私は会場に向かいました。

 

個室に集った面々、義理の父母は当日の朝覚えたての手話を、お相手のご両親に向かって披露していました。

その様子をびっくりしたように見入っているご両親。そして、笑顔を浮かべて「ありがとうございます。こちらもよろしくお願いいたします」と、手で話してくれました。それをその席の主役でもある息子さんが、聞こえる言葉へと同時通訳をしてくれていました。

食事をすすめながら、二人のことや結婚式のこと、家族のことへと話は進んでいきます。

 

口で話す言葉は一呼吸後に手で話す言葉に変換されて、手で話す言葉もまたそれを見ながら聞こえる言葉に変換されて返ってきます。

 

ポンポンと早いレスポンスにはならなくとも、両方の言葉が分かる通訳がいればなんらコミュニケーションに支障はないと感じ始めていました。

 

そして話題は、最近車を購入した息子さんの振りで自動車の運転になりました。

私がものすごく車の運転がへたくそなことを夫が話し、通訳してもらったとき、お相手のお父様がふむふむと細かくうなずき、親指と人差し指でCの形を作り、次は両手それぞれに作ったこぶしを2度前後ろに振って、私に笑っていました。

 

「もうちょっと、頑張れ」

そう聞こえた私はとっさに「いやいや、本当に危ないんです」と、

アドリブのジェスチャーでそう話していました。

 

通訳が入る隙も無い返答に「え?手話できるんだっけ?」と夫に尋ねられたことで、通訳を介さずにコミュニケーションがとれていたことに気付きました。

 

もちろん私は手話を学んだ経験はありません。

 

手話を話そうとして話したのではなく、手で話すコミュニケーションをとる場において、その場に馴染んできたときに、自然に聞こえた言葉に手を使って話し答えただけでした。

 

その不思議な体験はその後も続き、分からないはずの手話が、細かい表現までは伝わらなくても、おおかたは話している人の手を中心とした体の動きを見ていると聞こえてくるように思えたのです。

これは、なんとも言えない驚きが沸き上がる体験でした。そして、今までは遠く関係のない言語だった手話が急に身近に感じた瞬間でもありました。

 

2時間ほど過ごした席も結びの時間になったころ、

「それでは、今後とも末永くよろしくお願いいたします」と義父が挨拶すると、お相手のお父様とお母様がそれぞれ歩み寄り握手を求め「よろしくお願いします」と話しながら、手を握っていました。

私の手も包み込んでくれたその挨拶は、外国人が交わすハグほどは密着しない日本的な奥ゆかしさも兼ね備えたうえで、言葉のみの「よろしくお願いいたします」よりも、これから家族となる相手をより身近に感じたその場に合ったコミュニケーションでした。

 

このほんの数時間の出来事から、私の持っていた手話のイメージは作り変えられました。

 

「自らが置かれている環境がどういうものかを経験によって悟り、生き延びるために、よりふさわしい伝え方を学ぼうとする本能が、生命にはそなわっている」と本書にある言葉通り、人間には相手によってふさわしい伝え方を学べる本能はたしかにあり、「伝わらない・分かるわけがない」という勝手な思い込みがバイアスをかけているに過ぎません。

 

手話で話す人と関わったわけでもないのに、手話は分からないと決めつけていた印象は、実際に話してみたことで「分かろうとすれば分かることもある」と、塗り替えられました。

 

そして、手話は言葉の種類にすぎず、その根底にある「伝えあいたい」という気持ちさえあれば、あとはお互いが伝えあいやすい言葉を選択すればよいだけなのだと感じました。

 

ろう者同士の会話、ろう者と聞こえる人の会話、異国の言葉を話す人同士の会話、環境はさまざまです。コミュニケーションをとる環境に応じた言葉を選択して、適応していくことがどの場面においても必要なのだと思いました。

(影山)